八月の狂詩曲■黒澤明クロニクル~29
黒澤作品の中でもっとも観る価値の低い作品を挙げろといわれれば、まず思い浮ぶのが本作。
黒澤は女を描けないなどといわれていますが、決してそんなことはないと思います。もっとも女を「描かない」といわれれば否定はしませんが。
しかしそれよりも、コドモを描けない作家なのではないでしょうか。
デビュー作の『姿三四郎』から始まってオトナとコドモの対立はさんざん顕れてきました。それは単なる親子関係ということではなく、師弟関係や、広くいえば『隠し砦の三悪人』のようなブルジョアとプロレタリアの関係までを含みますが、それらはことごとくオトナからの視点で描かれ、しかも一方的なオトナの「勝ち」で終始していました。しかもそれはコドモに充分な抵抗をさせた上での勝ちではなく、親からの一方的なねじ伏せでしかありません。
しかしそれもストーリーのうまさでこういった点が上手に覆い隠されてきましたが、はからずも、こういった「対立」がない作品であらわになってしまいました。
この作品に描かれている子供たちには実在感は皆無です。オトナからみたコドモ、もっといってしまえば、オトナからみてかくあってほしいと願うコドモにすぎません。
それは溝口健二の映画で描かれている女たちが、男にとってこうあってほしいと願う女たちであることに類似しています。
要するに、常にオトナの視点からのみものを視てきた映画作家ということになるでしょう。
そしてラストの「野ばら」。これを聴いて、いっきに躯の力が失せてしまいました。
前作のイッポリトフ・イヴァーノフはまだしも、こんな通俗名曲をいまどき臆面もなくよくも堂々と映画に取入れられるものと感心することしきり。
確かにこの監督は、演歌や軍歌漬けだった同世代のなかでは音楽的素養は相当に高い方でしょう。
しかし映画監督としてはそれがかえって仇となっています。専門家に任せておけばいいものをやたらと音楽に口を挟むものだから、それが映画の品を下げることになるのです。
「野ばら」にしても、黒澤個人にとってはエバーグリーンサウンドかもしれませんが、我々にとっては小学校のつまらぬ授業などでさんざん聴かされたお上ご推薦の模範音楽のひとつにすぎません。









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